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不意の事故だ。

いきなり背中に冷たく湿った感覚がひろがった。
鼻をつくアルコールの香り。
それが赤ワインだということは確認しなくてもわかった。

原因はすれ違う人の肩がほんの少し触れた拍子の出来事みたいだから

怒りの矛も向けづらい。
何より、これでもかと頭を下げる女性に対して申し訳なさすら感じてしまう。

普段ならまぁいいか、それでお終い。ただ、今日は目頭が熱くなるのを感じた。
仕事や友達との関係、本当に踏んだり蹴ったり、まさにそんな感じのここ数日。

極め付けは昨日の別れ話。

彼と毎晩の様に楽しく飲んでいたワインを見ると、

いよいよ瞳から涙が溢れて止まらなくなった。

「ねぇ、これに着替えて」

少ない言葉だけれど、生粋の明るさに少しの心配を感じる声に私は顔を上げた。
目の前には真っ新なティーシャツ。
「たまたま事務所が近いんだ、

サンプルだけどまだ着たことも無いから、良かったら使ってよ」

そう笑う男から半ば無理矢理に渡されたティーシャツを受け取ると、

事前にお店に話していたのか流れる様に奥の部屋へと通される。
戸惑いながらも着替えて戻ると、

男はワインに染まった私のティーシャツを譲ってくれないかと申し出てきた。
普段なら不審に思うけれど、その日の私はシャツを手渡す事を選んだ。
「ありがとう」
お礼を述べると男は「こちらこそ」と何故か私に礼まで返してお店を出て行く。
まっさらなTシャツを撫でると、

ここ数日の悲しみが幾分柔らかくなっている事に気がついて少しだけ笑みが溢れた。
私はワインを頼むと、いまだに端で申し訳なさそうに小さくなる彼女に手渡す。
「ねぇ、慰めてくれない?」
不思議そうな彼女に無理やりグラスを持たせ、了解は得ずに音を鳴らす。

その日、たった一晩で私には新しい親友が出来た。

数日後、またお店に行くと店員に声をかけられ、茶色い紙袋を手渡される。
不思議に思いながらも開くと、

中には数日前にワインで汚れてしまった私のお気に入りが入っていた。
これからもっと気にいる事になるティーシャツと

一緒に殴り書きのメッセージが添えられている。
『偶然の出会いとインスピレーションに乾杯』

偶然の出会いとインスピレーションに乾杯

​AP24003

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